もどかしい

先日、病院で検査待ちしていたときのことです。年配の女性から声をかけられました。「あなたは何で検査するの?」どう答えようかと考えていたら女性は「私は74歳で今日は80歳のお父さんの付き添いで、お父さんは去年の12月に倒れて」と一気に自己紹介?を始めたんです。そしてなんと「この頃運転してて、どこに行くのか今どこかわからなくなる」と言うじゃありませんか。「私も検査した方がいいべかねぇ」と聞くので、「それはした方がいいと思います!なるべく早く。医者じゃないから病名とか言えないですけど、でも、もし認知症なら早い方が、今いい薬もあるみたいですし」と言ったら「まーさかー!道や行き先わからなくても運転できるし、まだ70代だじぇ!」と。

自己紹介で、お父さんの介護はしないけど子どもがいると言ってました。お母さんの異変に気づくかな。気づくといいな。もどかしい。

「ジャスコさ行くべ?んだと帰り道がわかんないのよ」って言ってたからイオンの近くの人なのかなと思います。その後すぐにその方の旦那さん「お父さん」が車椅子で戻ってきたので会話はそこまで。わたしはすぐに検査スタート。あぁ、なんだか重大なことを聞いてしまって、ドキドキしてしまいました。奥さん一人で旦那さんを介護しているんだよな。わたしはどうしたらよかったんだろう。

今日の帯揚げは!

総入れ歯式帯揚げとも呼んでおりますが、
本日の帯揚げは水玉のハンカチです。

きくちいまデザインのリバーシブル半幅帯「昼も夜も」は、全国のきくちいまオリジナル制作委員会のお店で5/12発売開始です〜

燕子花(かきつばた)のイメージで

本日のコーデは、燕子花」(カキツバタ・「杜若」とも書く)をイメージしています。単衣の結城縮(龍田屋)、濃紫に絞り名古屋帯(染織工芸むつろ)、リラの花(ライラックとも言う)色の紗羽織(室町京正)、帯揚げは帯の柄に似た色合いを、帯締めと羽織紐を白にして全体がすっきり見えるようにしています。中は本麻長襦袢「彩加」、白いコットンレースの半衿。
本当はグレーのコットンレースを付ける予定だったのですが、気づいたらびっくりするほど時間がギリギリに。慌ててスーツケースに入れました。縫い付けるかどうかは未定。運んだだけになったりして。

5/2、4は京都、5/3は名古屋です。京都きもの市場さんのトークイベント。わたしの話が、どなたかのお役に立てたら嬉しいなぁ。

歴史的瞬間!単衣の変

お茶の裏千家の月刊誌「淡交」の五月号に、もう五月から単衣にしましょうと書いてあって、歴史的瞬間に立ち会った気分です。「お先にという気持ちで」「単衣は五月からという新常識を共有」。もう暑いのを我慢して倒れそうにならなくてもいいんです。もうすぐ五月!堂々と単衣を着られますね。

フライング紗羽織

麻襦袢に単衣、紗羽織で過ごす金土日月でした。

実は華展がありまして。わたしの椿は準備日と初日が蕾、2日目は花が開き、3日目は花のひとつが落ちました。枝先の花は少し惜しかったですが、まぁそれも自然という感じかな。わたしが行けない土日は、先生をはじめとするお仲間の皆さんが世話をしてくださいました。ありがたい限りです。初めての華展。本当に参加してよかった!!

華展では写真が撮れないので、花器と花材の組み合わせをノートにメモするようにしています。無印良品の4コマ漫画用みたいな小さいノートが便利なの。

単衣のきもの、(いまのいろskala)、しけ暈しの紗羽織(室町京正)、白くてちょっと変わった組み方の羽織紐(龍工房)、本麻長襦袢彩加(きくちいまオリジナル製作委員会)、ブルーの三分紐、ピーコックグリーンの帯揚げ(和小物さくら)、鳥とお花の帯留め(騎西屋)

初蝶

スカーフの膨らみが、木蓮の蕾がふくらんだ様子と似ていて、なんだかやっと娘に春が来たなと思ったら泣けてきちゃって。入学式なのに泣いちゃダメ〜!と思って耐えました。

朝はスカーフがぺしょんとしていたのに、式のときにはすっかり膨らんできれいになっていました。この膨らませ方にはコツがあるらしく、生徒会の先輩方が新入生のスカーフを整えてくれたんですって。はにかみながら、蝶々みたい、と言う娘。そういえば森英恵デザインだもんな。蝶々に納得です。

今年の初蝶は、モンシロチョウでもキアゲハでもなく、娘のセーラー服のスカーフだな。

月刊アレコレ211号

連載中の月刊アレコレの「きくちいまのきものの引きだし」に書いたんですが、とってもきれいに訪問着を着て、袋帯を二重太鼓にしている全盲の女の子に会ったんですよ。自分でひとりで着るんですって。衿の抜き具合もお太鼓の形も完璧なの。彼女自身のその努力と、彼女に根気よく教えたであろう着付けの先生に、心から拍手を送りたくなりました。

伊達締めにアイロン

伊達締めにアイロンをして気持ちをリセット。この2年近く、心配事ばかりで本当に辛かったんですが、シワを伸ばして少し気持ちがスッキリしました。
右は紗、左はわたしデザインの「あわ雪」。どちらも博多の西村織物さんのものです。1本で3本分の安定感。胸元衿元の仕上がりが全然違うんですよ。

ハレルヤ!

「ハレルヤと私」

まさか私が不登校になるとは思わなかった。

そんな私が唯一「学校に行かなきゃ」と思ったのは、文化祭恒例行事のハレルヤの合唱がきっかけだった。コロナ禍で合唱を禁止されていたこともあり、やっと憧れのハレルヤが歌える、と楽しみにしていたのだ。ハレルヤは葉山中の自慢の伝統で、先輩たちが作ってきた「合唱の葉山」の代表的存在だ。歌が大好きな私にとって、ソプラノで思いきり歌える時間は何よりも楽しいのだ。

「菜那ちゃんがいると、三人分のソプラノになる」と友達に言われるのも「的確な音程で、安定感がある」と音楽の先生に褒められるのも嬉しかった。私は歌うのがそれはもう好きなのだ。特にハレルヤのソプラノパートは、出しにくい高音と複雑な音の調和が組み合わされていて、歌い終えたときは、天にも昇るような高揚感に包まれる。もう一度歌いたいと思える。その繰り返しだ。

それでも学校に足が向かない日ばかりが続いた。歌いたいのに。ハモりたいのに。

そんな私を見て、母は二泊三日の出張中にアルトパートを覚えて帰ってきた。

「お母さんアルト覚えたんだけど、一緒に歌わない?」

は?なんで?何のために?私は驚きが隠せなかったが、母は私に前を向いて欲しかったのかもしれない。

それから主に車の中で、動画サイトのピアノ伴奏を流して、母娘で歌うことが増えた。音が重なる快感が蘇る。やっぱりみんなと一緒に歌いたい。

私は自分の意志で学校へ行き、みんなと歌った。ハレルヤの練習の成果を発揮する文化祭で、一つ上の兄や仲の良かった先輩達を見送る卒業式で、新しい葉山中生を迎え入れる入学式で。堂々と。朗々と。高揚感が私を満たした。

今もたまに車で母と歌っている。

ハレルヤが歌えるなら、ハレルヤが歌える全世界の人たちと繋がることができると思うようになった。なぜなら、他の国の言葉を話すことができなくても、心を通わせることができるからだ。これは世界共通の言語のようなものだ。

これからもし躓くことがあっても、私には合唱が、ハレルヤが、道の先で何度でも手を差し伸べてくれると思う。

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夏休みにわたしのパソコンを使って下書きをしていたものから拾いました(娘の許可はもらってあります)。

2年前の高松出張の帰り道、キラキラ光る瀬戸内海の夕陽とハレルヤの楽譜とを交互に見ながら、イヤホンでハレルヤのアルトパートを聞き、必死で歌を覚えておりました。そのときわたしにできることは、それしかなかったんです。

ハレルヤの練習風景を見たことがあります。合唱指導で有名な地元のおじさん先生が、子どもたちに向かって「ハレルヤ、ハレルヤってただ歌うんじゃないの。どんどん大きく盛り上げていくの。途中で諦めて声量を下げちゃったら、ひゅーん、君たちの成績とおんなじ(ここで子どもたち大爆笑)。いいですか、コロッケ!コロッケ!ハンバーグー!!!ハンバーグ、ハンバーグ、ステーキーー!!!って感じでね!」子どもたちはドッカンドッカン笑ってて、指導前と指導後では全くレベルが違っていました。いいなぁ。いつか君たちが大人になったとき、ハレルヤを聞くたび、思い出が味方してくれるんだよ。

娘の卒業式、最後のハレルヤでした。アルトパートは一応まだ歌えますが、感無量になっちゃって、マスクに涙を染み込ませてきました。

支えてくれた先生方、味方してくれたママ友たち、本当にありがとうございます。

黙祷

12年前の今頃は余震に怯えて家族みんなリビングに集合し、停電で真っ暗の中わたしは娘をおんぶしたまま仮眠してたっけな。あのときは家族に食事を与えることに使命感があった。朝が済めば昼どうしよう、昼が終われば夜どうしようの繰り返し。原始時代のお母さんもこうだったんだろうなと思っていた。

津波のことはラジオではちょっと聞こえたけど、そんなとんでもないことになっているとは思わなかった。小学1年生だった長男が、あの山越えて津波来る?と聞いてきたのを覚えている。さすがに奥羽山脈は越えないと思うなぁと答えながら、東の方を見ていた。胸の奥にしまっている思い出、いっぱいあるな。

戦前戦後に昭和が分けられたように、震災前震災後に分けられる世の中になるんだろうなと思ったっけ。

被災地の人が頑張るよう書いてくれと依頼された新聞の小さなコラムに、もう十分頑張ってる人たちに、さらに頑張れなんて言えないと書いたっけ。

もう干支が一回りしたのかと驚く。

地震が発生した時間の黙祷だけじゃ足りなくて、津波が到達した時間もだし、そこから始まるたくさんの数えきれない悲しい出来事の連続、もう今日からしばらくずっと黙祷なんだ。

悼むことと一緒に気を引き締めて、生きていこうと思う。