12年前の今頃は余震に怯えて家族みんなリビングに集合し、停電で真っ暗の中わたしは娘をおんぶしたまま仮眠してたっけな。あのときは家族に食事を与えることに使命感があった。朝が済めば昼どうしよう、昼が終われば夜どうしようの繰り返し。原始時代のお母さんもこうだったんだろうなと思っていた。

津波のことはラジオではちょっと聞こえたけど、そんなとんでもないことになっているとは思わなかった。小学1年生だった長男が、あの山越えて津波来る?と聞いてきたのを覚えている。さすがに奥羽山脈は越えないと思うなぁと答えながら、東の方を見ていた。胸の奥にしまっている思い出、いっぱいあるな。

戦前戦後に昭和が分けられたように、震災前震災後に分けられる世の中になるんだろうなと思ったっけ。

被災地の人が頑張るよう書いてくれと依頼された新聞の小さなコラムに、もう十分頑張ってる人たちに、さらに頑張れなんて言えないと書いたっけ。

もう干支が一回りしたのかと驚く。

地震が発生した時間の黙祷だけじゃ足りなくて、津波が到達した時間もだし、そこから始まるたくさんの数えきれない悲しい出来事の連続、もう今日からしばらくずっと黙祷なんだ。

悼むことと一緒に気を引き締めて、生きていこうと思う。